国土を創った土木技術者たち

田辺朔郎

明治維新成就によって1000年のみやこの座を失った京都が、起死回生をかけて取り組んだ大事業、それが明治18年着工、同23年竣功の琵琶湖疏水建設であった。時の為政者、北垣国道知事の構想は、隣接の滋賀県にある近畿の水がめ、琵琶湖から水を疏くことによる動力源と舟運路の確保、そのほかに灌漑や生活水、防火用水への利用であった。工事に際して、北垣知事が“人材”と認め、工事主任に起用したのは、弱冠22歳、工部大学校を卒業したばかりの工学士、田辺朔郎であった。琵琶湖疏水の完成によって、京都は古都から近代都市への再生を果たした。それは同時に、近代土木技術における日本の“独立宣言”でもあった。

田辺朔郎は1861年(文久元年11月1日)、幕臣田辺孫次郎・ふきの長男として江戸に生まれた。その翌年日本ではじめて大流行した異国渡来の麻疹で孫次郎は他界、田辺は生後9ヶ月で父を失っている。6歳で維新に遭遇、「官軍が攻めてきて、江戸八百八町は焼き討ちされる」との噂で、母と姉鑑子(のち、建築家片山東熊夫人)とともに埼玉県幸手へ疎開した。やがて田辺一家は東京へ戻ったが、時代の変遷にともない、旧幕臣とその家族の生活はけっしてらくなものではなかった。

明治8年5月、田辺朔郎は工部大学校工学寮付属小学校に入学、つづいて同大学校に進学した。工部大学校は「大いに工業を開明し、以って工部に従事するの士官を教育するため」に明治4年に設立され、「エンジニアは社会発展の原動力たること」を建学の精神としていた。

6年制の工部大学校では、5年生の学生を全国に派遣し、近代日本の国土づくりに必要とされる社会資本の建設計画に参画させた。明治14年3月18日、田辺朔郎は「学術研究のため東海道筋ならびに京都大阪出張」を命じられた。これが田辺のその後の運命を決定することとなる。

京都では北垣知事が推進する琵琶湖疏水工事計画の調査が緒についたばかりだった。京都府の調査とは係わりなく、田辺は彼自身の研究のテーマとして琵琶湖疏水工事の計画を調査した。その途中で、彼にとっては何度目かの災難に遭遇することになる。疏水のルートとなる山中の地質を調査中、彼は誤って右手の中指を負傷した。東京に戻り、卒業論文として調査結果のまとめにかかるころから、右手中指のけがは悪化し、首から吊っても痛みは耐え難かった。しかし母子家庭の苦学生である彼には、病院で治療するゆとりは時間的にも経済的にもなかった。そのうえ、卒業の成績が就職後の給料の多寡にも影響を及ぼすから、留年などは許されない。慣れない左手で書く英文の論文。製図の苦労はさらに大きかった。平行線をひこうと定規をあてがい、動かないように重しをのせて、いざ線をひこうとすると烏口のインクが乾いている。最初からやりなおしだ。

けがが左手であったら…と思わないではない。だが「左手で百難を排する方がやりがいがあるってぇものだ。断じて行えば鬼神もこれを避く」と、田辺は歯を食いしばった。不撓不屈の精神力を、彼は度重なる不幸のなかから培っていったのである。

北垣知事が琵琶湖疏水工事のリーダーとなるべき人材を求めて工部大学校を訪ねたとき、旧知の大鳥圭介校長が引き合わせた学生が田辺朔郎だった。

明治16年5月15日、田辺朔郎は工部大学校を第1等で卒業した。骨膜炎を悪化させた右手中指は、帝国大学付属病院で第1関節と第2関節のあいだを切除され、小指ほどに短くなったが、長いあいだ苦しめられた痛みからは、ようやく開放された。                  「京都府御用係准判任官」、京都に着任した田辺の肩書きである。琵琶湖疏水工事に関する業務を、事業期間だけ執り行う役職と解釈すればいいだろう。

南北に細長く、琵琶の形を描く琵琶湖、その南西に位置する大津に取水口を設け、京都東山の山麓まで約8km、疏水のメインルートとなるこの間には、京都と滋賀の府県境となる長等山と東山の山並みが立ちはだかり、トンネル通過となる。とくに延長約2,500mの長等山トンネルは、当時としては前例のない長大トンネルである。

京都市街地に到達した水路は蹴上で分流し、幹線は南禅寺舟溜から鴨川へ。支線は南禅寺境内を横断して白川に合流、ここが水車動力の基地となる。水車の動力源とするためには、水源から蹴上までの水位差を少なく保ち、そこから一気に落差をつける必要がある。一方舟運のためには、その落差を積荷のままで船を下方へ移動しなければならない。そこで傾斜鉄道を設けることとし、それを「インクライン」と称した。このハイカラなことばの意味を当時の市民が理解したとは考えられないが、「インクライン」が古都を近代化するビッグプロジェクトの象徴として市民に受け入れられたのは事実であった。

工費は最初60万円と見積もられた。その一言が金科玉条の重みを持っていたオランダ人技術者、ヨハネス・デレーケは、トンネルを掘る山の地質の堅固さや工費の点で、実現不可能と判定した。内務卿山県有朋は「かかる如き懸念ある以上は、けっして工事に着手せしむべからず。必ず起こすべきの事業は、必ず遂ぐべきの計画なかるべからず」と釘をさした。   

疏水計画反対の声は上流の滋賀県からも、下流の大阪府からもあがった。京都市議会ではきびしい反対意見があがり、市民のなかには「琵琶湖の水が京に流れ込めば、町は水浸しになる」とさわぎたて、工事費負担への不満から「今度来た餓鬼  極道(国道)」と知事を揶揄したビラが貼られる。

四面楚歌のなかで、北垣知事は矢面に立って反対者を説得し、工事推進の意志を貫いた。工事主任田辺朔郎にとっては、デレーケが提出した工事反対意見書のなかに述べられた「京都府のスタッフが作成した運河路線地図は、各地高低の位置をあらわす方法として等高線を用いている。これは実地製図技術として高く評価されるべきものである。費用の点で工事は実施不可能の結論にいたったが、作図の優秀さは大いに賞賛に値する。作図者は田辺朔郎氏である」の文言に、ひそかに自負するものがあった。加えて、知事の強力な後ろ盾がある。北垣は「田辺を工事主任とする点では、一切の懸念はない」とまでいいきっていた。

琵琶湖疏水総工費は125万円にはねあがった。国家予算7000万円の時代である。現在ならおよそ1兆円のプロジェクトに相当する。

「水力発電」という、ほとんどそれまで耳にしたことのなかった技術がアメリカで開発されたという情報を田辺がキャッチしたのは、疏水工事が中盤を迎えたころだった。琵琶湖疏水事業の発端は動力源の確保であったが、それは何段かに重ねた水車によるものだった。水車の周辺に、今日でいうところの工業団地を拓こうというもので、東山山麓の景勝地がそれに当てられることになっていた。

「これからの動力は電気だ。もはや水車の時代ではない。この琵琶湖疏水の現場に、わたしの手で水力発電を採り入れ、時代を先取りしたい」

土木技術者である田辺が、そう考えるのは当然のことであろう。

京都人は保守的である反面、新しいものを積極的に取り入れようとする気風がある。しかも琵琶湖疏水は北垣知事が提唱する京都百年の計であり、京都近代化の象徴なのだ。工事を途中変更しても、世界最新の水力発電を採り入れようとする意見は、市議会で満場一致した。この時期、水力による発電はまだ世界でもまだ珍しかった。田辺は高木文平議員とともに“水力発電視察”のためアメリカへ渡った。明治21年10月のことである。アメリカ視察の主目的は、マサチューセッツ州ホリヨークで開発された水車による水力工場の視察だったが、田辺はコロラド州アスペンの水力発電施設を視察し、水力工場より水力発電の採用に固執した。それが若者の柔軟な頭脳から来る先見性であったというべきだろう。

2ヶ月足らずのアメリカ滞在中、田辺は電気と名のつくものはすべて視察した。その間、アスペンのままでは使用できず、改良の必要があるペルトン水車発電装置の速度調整器の設計図を書き、製品を日本へ送るようにと依頼して帰国した。

疏水工事のころの日本には、土木技術者はまだわずかしか育っていなかった。測量主任・島田道生というよきパートナーを得ていたが、長いトンネルの中心線の測量にあたっては、たとえようもないほどの辛苦が伴った。現場で指揮をとる一方で技術者を養成し、その合間に膨大な参考書をひもといて、「公式工師必携」というハンドブックの著作もした。まさに八面六臂の仕事ぶりであったが、自分自身の技術向上を目指した勉強も怠らなかったのであろう。工学会誌に工部大学校の先輩・中野初子が掲載した論文「電気発動機の説」を読み、エネルギー源が水車から蒸気機械、さらに電力へ移行することを、田辺は鋭く見据えていたのだった。

疏水事業の当初の予定では、水車は東山山麓に設置されることになっていた。予定通りに実現すれば、この地区は零細な工場地帯に一変していただろう。工事を途中変更して水力発電を採り入れたことで、この周辺の多くの文化財と歴史的景観が損なわれることから免れた。その点でも田辺の先見性は現在の京都の都市景観に大きな影響を与えたのである。

明治22年2月27日、日本でいちばん長い長等山トンネル貫通、同23年4月9日、琵琶湖疏水通水式。田辺朔郎、27歳の春であった。為政者は若者を信頼し、若者は真摯に努力して応えた。これが疏水工事成功の最大のポイントといっていい。

京都市は疏水完成の翌年、発電を事業とした。これは世界の魁事業であった。電力で船がインクラインを昇り降りした。さらに明治28年、日本で最初の路面電車が京の都大路を走った。こうした偉業に、遷都で疲弊していた市民は、京都人としての気概を取り戻した。“疏水のインクライン”は京都のひとにとって、精神的支えともなったのである。疏水のおかげで、今日の京都がある、といっていい。

明治23年、疏水完成後、田辺はその業績により工学博士の学位を取得、母校である帝国大学工学部教授となり東京へ戻った。

6年後の明治29年5月、北海道鉄道敷設法が公布された。そのころ北海道庁長官となっていた北垣国道の要請を受けた田辺は、大学教授の地位を擲ち、鉄道技師として北海道に赴いた。

当時の北海道はほとんどの地を原生林と湿原に覆われ、ヒグマやオオカミなどの猛獣が跋扈し、おびただしい蚊虻がはびこっていた。鉄道は小樽から札幌までが開通していたが、その先は原生林を切り開いた囚人道路がわずかにあるのみ、それも人通りが疎らで、草葉のトンネルのような状態だった。

厳冬の地吹雪や夏季の虫害と戦いながら、田辺は馬を駆り、足を棒にして1600km幹線鉄道の実地踏査を行った。自らは危険で苛酷な環境に身を置きながらも、将来の豊かな社会を目指して世のなかのために尽くすことに、土木を選んだ男の使命感を見出していたのである。

時の大蔵大臣・井上馨が一切の公共事業中止を通達したのは、明治31年度予算決定の直前であった。日清戦争後、日本は軍需拡大に多額の費用を投入し、一方では膨大な公共事業計画をかかえて著しい財政難に陥っていたのだ。

このとき田辺は即座に上京、カミナリ大臣の異名を持つ井上と3時間にわたる会談を交えた。北海道のような開発途上の地で事業を中断することの弊害の大きさ、それはこれまで注ぎ込んできた資金も人的資源もすべてが水泡に帰すことを意味する。将来に向けて、北辺の国土を開発することの意義を、田辺は綿密な数字をあげて井上を説いた。

3時間にわたり白熱した会談は、井上のひとことで終りを告げた。

「えいくそッ。100万円、くれてやらあ」

えいくそのひとことで、北海道は年度予算を獲得し、鉄道中止の厄を免がれたのである。

だが、明治31年、日本に初めて政党内閣が誕生し、政党人が北海道庁長官に就き、勢力を伸ばすにしたがって、鉄道事業にも影響が現れた。いわゆる公人としての意識に欠け、事業を私しようとする為政者や、それを支持する一部有力政治家の行動は、人格を尊重し、義務を重んじることで自らをきびしく律してきた田辺にとって、許容の範囲を越えるものであった。公私を混同した上司に対して田辺ははげしく反発した。その結果は為政者の意に添わぬものとして逆に反発を買うこととなった。元来、実務家であり、現場の仕事に愛着を持っていた田辺であったが、周囲の事情が彼の仕事を次第にやりづらいものに変えていた。

北海道にとどまり、為政者に反抗しても鉄道建設に携わりつづけるか、それとも腐敗した北海道鉄道事業に見切りをつけ、人格を備えた優秀な後進の指導にあたるべきか…。

明治33年10月、田辺は再び転身、京都帝国大学理工学部教授として、後進の指導にあたる道を選んだ。そうしたなかで京都市土木顧問嘱託、さらには名誉顧問となり、第2疏水及び上水事業計画に参画することとなった。疏水完成後、事業化していた水力発電は需要が急激に伸び、明治35年ごろには増強する必要が生じていた。そこで全線トンネルの第2疏水を建設して発電増量をはかるとともに、水道事業を創設、さらに道路拡幅と電気軌道敷設の3大事業に着手、明治45年に完成した。烏丸通り、四条通り、東山線などの電車通りはこのとき整備され、現在の京都の市街地整備はほぼ完成したのである。

この時期、山陽鉄道は下関まで全通し、九州と陸路連絡すべく関門海峡トンネル構想が持ちあがっていた。欧米ではすでに河底トンネルが開通していたが、海底トンネルは世界的に例がなかった。田辺は明治44年10月、海底隧道線の最初の実地踏査を行い、さらに欧米のシールド掘削現場を視察した結果、関門海底トンネル掘削可能を言明した。  

京都市の都市計画における田辺の貢献は高く評価されており、大正7年には彼を京都市長に推薦する要請があった。しかし田辺はこれを固辞し、生涯一土木技術者としての生き方を貫いたのであった。

関門トンネル上下線全通に伴う開通式が行われたのは昭和19年9月9日、田辺朔郎が83年の生涯を閉じたのは、この日に先立つ4日前の9月5日である。

2001年7月6日作成 掲載誌不明

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