「土木」というものにほとんど馴染みがなかった私が、いまは土木屋の応援団長を自認しています。十数年前に田辺朔朗という土木技術者を主人公にして、京都の琵琶湖疏水建設と北海道の鉄道建設の物語を書きましたが、取材の段階で数多くの土木技術者と会い、その方々の胸に秘められた「土木の心」に触れたのが、応援団となるきっかけでした。
「恵まれないひとたちに少しでも豊かな暮らしを与えたいとねがって、土木を選びました」
何人かの土木屋さんが口にされたこのことばは、以来私の胸の中にしっかりと根を張っています。
明治新政府の初代内務卿・大久保利通は国土計画構想の推進者でした。明治十一年三月、彼は「一般殖産及華士族授産ニ関スル建言」を提出、国土開発を進めるために、官費で諸地方の土木事業を行うことを提言しました。以来土木は内務省という官制上の伝統が定着したのですが、第二次大戦後の内務省解体で、新たに設けられた建設省がこの伝統を引き継いできたわけです。所轄の省名は変わっても、国による社会基盤の整備が、国民により豊かな暮らしを保証するとした大久保利通の精神は、そのまま受け継がれたのです。つまり建設省は「土木の心」の具現者であることが、つねに根底に据えられていたのです。
届いたばかりの「新道路整備五箇年計画の要点」には、道路政策を中心に、安心して住める国土づくりを謳いあげていますが、その内容は、少なくともその精神は、百年以上も前に築きあげられていたのではないかと思えてなりません。
建設行政を取り巻く事情は、いつの時代も一定ではありません。インクラインや南禅寺の水路閣を含めた琵琶湖疏水は、建設百有余年を経て部分的には土木遺産となりましたが、いまなお現役の社会基盤であり、京都が誇る観光名所でもあります。しかしこれが完成したとき、福沢諭吉でさえ山水の美、古社寺の典雅を損ねる「いわゆる文明流に走りたる軽挙」と反対を唱えました。その意味で、現在国土づくりに携わっている方々の仕事の評価は二十二世紀にまたねばならないのです。土木の心を忘れずに、後世に誇りうる国土づくりを目指して、研鑚努力されることを期待しています。
作成1999年5月9日掲載誌不明