【雑誌等掲載原稿】田辺朔郎

 明治初年、日本の土木技術はほとんど白紙の状態にあった。したがって治山、治水、鉄道建設といった社会の根幹事業はすべてお雇い外国人技術者にたよらざるを得なかった。

 そうしたなかで、明治23年4月に完成した琵琶湖疏水と、翌24年5月にスタートした水力発電は、日本人だけの手で成し遂げられた土木事業であり、いわば土木技術における日本の独立宣言ともいうべきものであった。その金字塔を打ち建てたのが田辺朔郎である。「エンジニアは社会発展の原動力」母校工部大学校の建学の精神を常夜灯のように心のなかにともしつづけた技術者であった。

 田辺朔郎は文久元年(1861)11月1日、幕臣田辺孫次郎の長男として江戸下谷(今の東京都台東区上野)に生まれた。朔日(ついたち)生まれから朔郎となづけられた。田辺家は代々学問を以て幕府に仕えてきた家柄で、祖父田辺石菴は昌平 教授や甲府徽典館の学頭をつとめた儒者だった。父孫次郎は高島秋帆がオランダから導入した西洋砲術に魅せられ、文を捨て、武に走っていた。孫次郎の弟、田辺太一はのちに岩倉具視訪欧米使節団の第一書記官となった幕末の外交官である。

 孫次郎は文久2年8月、この年日本ではじめて大流行した麻疹にかかり他界、田辺は生後一年もたたずに父を失っている。

 慶応4年(1868)が明けたころから、江戸は官軍に焼き討ちされるという噂がたった。孫次郎が新しい西洋砲術家であった関係で、この機会に便乗した守旧派の迫害が懸念された。母ふき子、祖母梅想、姉鑑子そして朔郎は、数人の供をつれて埼玉県幸手の知人のもとへ難を避けることにした。その途中官軍を名乗る野盗の一団に遭遇した。

 幼い日の朔郎は指先のかすりきずにもめそめそと泣く弱虫だった。つねづね、武士はいざというときは腹を切るものだと教えられていたが、想像するだけでも恐ろしかった。だが野盗の一団を目の前にしたとき、幕臣の子とわかれば殺されると察知した田辺は、懐の短刀に手をかけていた。「行く先もまた天下安穏なるところなく、一身はおのれ自ら保護するよりほかに途なきとの観念は、わずか8歳ながら覚え得た」のであった。さいわいにもそばにいた大人に助けられてことなきを得たが、6歳6ヵ月の身で死を覚悟したのである。 維新成就後田辺家は東京へ戻ったが、住み慣れた家は焼かれ、しかたなく元の奉公人の家に身を寄せることにした。だがその家のあるじは、徳川家が崩壊したいまとなっては、旧恩など一顧の価値もないといわんばかり、元の主人一家を冷遇した。このことは時代とともに変わる人情のはかなさを、はからずも幼児の心に植えつけることになった。

 徳川家の移封に従っていったんは沼津に移り住んだ田辺家は、叔父田辺太一の新政府任官で再び東京に戻り、朔郎は湯島天神下の共慣義塾に通って英語と漢文と数学を学んだ。

 明治6年9月、1年9ヵ月ぶりの太一の帰国を横浜に迎えた朔郎は、はじめて外国汽船ゴールデンエイジ号を見た。帆と蒸気機関の両方を備えた船だった。太一は朔郎を船のエンジンルームに案内して語り聞かせた。

「アメリカでもイギリスでも、いたるところでエンジンが動いていた。そして工業が盛んになっていた。日本もこれからは工業をおこさねばならない。列強と対等になるには、まず工業だ。そのためには、これからの若者は大いに工学を学ばねばならない」

 このときから田辺は工学を志向するようになった。

 明治8年5月、田辺朔郎は満13歳で工部寮付属小学校に入学し、2年後工部大学校に進学した。

 工部大学校は明治4年4月に開校した工業専門学校で、東京大学工学部の前身である。「学寮(学校)ヲ設立スル所以ノモノハ、大ニ工業ヲ開明シ、以テ工部ニ従事スルノ士官ヲ教育スルタメナリ」と工部寮入学規則第一条に謳われている。日本国内で優秀なエンジニアを養成するために設立されたものであり、「エンジニアは社会発展の原動力である」ことを建学の精神としていた。大鳥圭介校長のほかは英国グラスゴー大学から招聘されたヘンリー・ダイヤー、W・E・エアトン、D・H・マーシャルら外国人教師であった。学科は土木、機械、造家、電信、化学、冶金、鉱山、造船の八科に分かれ、就学期間は6年。授業はすべて英語で行なわれた関係で、1、2年の普通科は英語教育に重点が置かれ、3年進級時にそれぞれ専門課程に分かれた。

 田辺朔郎は土木を専攻した。全寮制で、本来は全員官費生とし、卒業後7年間は工部省の指令に従って奉職する義務を課されていた。しかし、田辺が入学する前年から私費生も募集しており、田辺太一が後援者となっている関係で、田辺は私費生(学費は1ヵ月10円)として入学していた。しかし在学中に太一が破産し、朔郎は200円の借金を背負って学業をつづけるはめに陥り、たいへんな苦労をすることになる。

 英国人教師たちは工部大学校の学生が日本の将来を担う人材となりうるとの信念のもとに、英国紳士らしく、人格を尊重し、義務を重んじることをきびしく指導する一方、学問に対する真摯な姿勢を重視した教育方針をとった。第一期生(田辺の2年上級)にはのちに東京駅や日本銀行本店などを設計した日本近代建築の先駆者辰野金吾や、赤坂離宮、東京、京都、奈良の国立博物館の設計者片山東熊らがおり、(片山は田辺の姉鑑子と結婚した)、田辺の同期にはフォース橋建設工事監督技師となった渡辺嘉一や、河野瑞天らがいた。 2年間の専門課程を終え、実地科に進むと、学生たちは工部省の辞令で日本各地に派遣された。工部大学校では実地教育に重点を置き、学生は実地研究をもとに卒業論文を作成するシステムをとっていた。

 ファン・ドールン、ヨハネス・デ・レーケら外国人技術者の指導を得て、治水、港湾、鉄道建設などの社会基盤は徐々に整備されつつあり、それらお傭い技師の功績は大きかった。だが彼らの技術があれば、事業は必ずしも成功に結びつくとは限らなかった。外国人は日本の自然を知らず、日本特有の地震の知識にも欠けていた。日本の自然に立ち向かうには、やはり日本人の心が必要とされる。工部大学校の学生に求められたのは、この心であった。

 学生たちもまた、自分たちの手で新しい日本の国土づくりをしようとする気概に満ちていた。彼らは国内を実地踏査し、建設計画を立て、きそって建白した。新生日本の揺籃期は建白ばやりの時代ともいえた。

 実地科に進んだ田辺朔郎が受け取った辞令には「学術研究のため東海道筋並びに京都大阪出張申し付け候 明治14年3月18日 工部省」とあった。

 新橋から横浜までは汽車が通じていた。その先は歩くしかない。折から国会開設運動が盛りあがり、自由民権運動が全国に拡がろうとしていた。東海道は民権家の上京を阻止する規制が敷かれ、宿泊許可のないものは止宿することができなかった。一日歩き通して、日が暮れると土地の警察を訪ね、宿泊許可証の交付を受けたうえで、粗末な旅館にわらじを脱いだ。

 夜明けとともに宿を発ち、道端に腰をおろして弁当を食べた。その目の前を2人曳きの人力車が砂ぼこりをあげて走り去ることがある。東海道を人力車で旅行するのは社会的地位のあるものか、余程の金持ちにかぎられている。

 走り去る人力車を目で追いながら、田辺の頭の中にこれと似た光景が描かれていた。かってこの街道を腰に矢立をさし、道すがらスケッチするひとりの画家、安藤広重と、その目の前にさしかかる大名行列。広重には駕篭で行く大名にひき比べて、身分の低い自分がみじめに思えたことであろう。だがそれから50年たったいま、駕篭にのった大名の名を知るものはひとりとしておらず、安藤広重は東海道五十三次の画家として世界にその名を知られている。

「人間の真の評価は後世に待たねばならない」

 心の中でいい聞かせる田辺の胸中には、新生日本の揺籃期を生きる若者らしく、「いまに見ておれ」という気概に燃えていたにちがいない。

 東京湯島の家を発って10日目、田辺朔郎は目指す目的地京都に着いた。

 東京遷都からすでに14年、京都はいまだに疲弊しきった状態から立直ってはいなかった。「旧都奈良の轍を踏むな」のかけ声はしょせん空念仏にすぎず、町は衰退し、市民は虚脱状態に陥っていた。初代知事長谷信篤、二代槙村正直らは、遷都に際して市民慰撫の意味合いで新政府から下賜された10万円の産業基立金をもとに、京都を近代産業都市として再建をはかるべく、さまざまな施策をとってきた。だがそのどれもが抜本的な再建策となるにはいたらなかった。

 明治14年1月、北垣国道が第三代知事として着任した。北垣は久美浜県(現在の京都府熊野郡久美浜町)知事を振り出しに、北海道開拓使や熊本県大書記官を経て、高知県令を歴任した地方行政の豊かな経験者で、しかも任地主義を貫いてきた地方官であった。槙村前知事の専横ぶりに反発してきた京都市民は、「ああ、府下10有余万の人民万歳と叫び、雀躍して欣喜せずんばあるべからず。祝したまえや賀したまえや」と歓迎した。 北垣知事はいかにすれば疲弊した京都の起死回生をはかることができるか、京都の民情に合った政治とはなにかを思索した。

 近代産業都市として復興をはかろうとした前任者の施策に、北垣は基本的には賛成だった。ただしこれからの産業は動力を導入し、大量生産をはかるものでなければ時代に適応しないと考えていた。問題は動力源だ。この当時の動力源は火力か水力である。動力源を火力に求めれば、内陸都市京都は石炭の生産地から遠く、搬入の費用が莫大となる。そのためのコスト高は免れない。京都がみやこであったころは、京都の製品はみやこの特産品として高価であることが、むしろ付加価値を持っていた。しかしみやこの地位を奪われてしまえば、価格競争では勝ち目がない。

 水力はどうか。市内を流れる鴨川は水量が極端に少なく、水力利用には適さない。比較的水量の多い桂川でさえ、夏期には渇水して年間を通じての動力源とはなり得ない。

 だが隣接の滋賀県には日本一を誇る「近畿の水がめ」琵琶湖がある。この水がめから水をひけば、無尽蔵の石炭山を掘りあてたのも同様だ。

 水路はまた舟運として運輸路を確保できる。内陸都市京都は物資搬入には人肩馬背にたより、しかもその場合は小量しか輸送できなかったが、舟運が開ければ、大量の荷の輸送が可能になり、そのことでコストダウンをはかることができるのである。

 琵琶湖の水をひくことによって、灌漑用水、生活水も同時に確保できる。

 琵琶湖疏水の開削は、京都を抜本的に改造し、未来に開ける近代都市となし得るのだ。この策は千年のみやこの座を追われ、地盤沈下にあえぐ京都を、みやこであったころの姿に戻すのでもなく、目先の繁栄を求めるのでもない。これは京都百年の計なのだ。再生ではなく、新生なのである。「琵琶湖疏水開削--京都の新生にはこれ以外に策はなく、これ以上の策もない。ひとつの大きな目標に向かって、市民が心と力を合わせれば、この沈滞ムードから必ず脱出できるのだ」

 北垣は熟慮のあとで結論に達した。

 琵琶湖から京へ水路をひらく構想は、古くは平清盛から太閤秀吉、徳川家康ら、近くは槙村前知事も一度は抱いたと伝えられている。幕末から明治初期にかけては、外資系も合わせて何件かの開削許可願が京都府や滋賀県に提出されている。いずれも実現ないしは許可されなかったのは、技術面や資金面で不備があったからである。

 いまこれを実現させるとすれば、技術面では外国人技師によって近代土木技術が導入され、それを受け継いだ日本人技術者も育ってきている。現に前年完成した東海道線逢坂山トンネル(665メートル)は、外国人の手を借りず、日本人だけの手で完遂させたものだ。もはや技術は手の内にある。

 経済面では国家の有事が皆無のこの時期なら、国の協力も要請しやすい。

 北垣は疏水ルートの調査を地理係に命じた。そして調査結果をもとに立てた計画を、参議伊藤博文や松方正義に示して、政府の協力を要請した。彼ら政府首脳は基本的に京都の琵琶湖疏水建設計画に賛成の意志を示した。

 田辺朔郎が入洛したのは、折から琵琶湖疏水計画が緒につこうとしているときだった。これにヒントを得た田辺は、京都府の計画とは関係なく、彼自身の研究テーマとして琵琶湖疏水工事計画の調査に着手した。

 彼はまず比叡山の頂上四明嶽に登り、周辺の地形を観察した。東山の連山は延々南方に走り、そのなかで比較的高い大文字山如意ヶ嶽でさえ脚下の一小丘にすぎない。その東西両側には近江盆地と京都盆地が広く展開し、連山はこの二大平野の境界を画す土手のようにしか見えない。したがってこの頂上からこの地形を眺めた先人のなかに、あの豊富な琵琶湖の水を京都にひくことができないかと考えたものが少なくなかったことも当然のことと納得できた。専門的知識がなくても、水利の可能性を、天然の地形が暗示しているのだ。田辺は自ら学んだ基礎的知識から、この夢の実現が可能なことを、一種の感動をもって感じ取ったのであった。

 自ら選定した疏水ルートに沿って、彼は実地踏査を行なった。仰角で山の高さを計り、ハンマーを手に地質や地層を調べた。京都と滋賀を画す山塊に掘るトンネルの延長は約2500メートルになる。日本では前例のないものである。そのほかにも二、三ヵ所はトンネル通過となる。

 日本のような地形の場合、鉄道に限らず、道路も水路もトンネルなしに工事を行なうことはありえない。つまり土木工事は山岳をはじめとする自然への挑戦ということができる。湧水や落盤の危険性はつねにつきまとう。それらを克服するのが技術である。技術でもって自然に挑戦だ。

「ぼくの手でやってみたいなあ」

 ときにはこうした思いに捕われることがあったとしてもふしぎではない。

 調査を始めてひと月余りがたっていた。昨夜来の雨で、山肌はぬかるんでいた。このあたりの土質は粘土に土砂をまぜたような軟らかいもので、水分を多量に含んでいる。トンネル掘削に際しては湧水が多いだろうなと思ったときだった。田辺は足をすべらした。あわててかたわらの岩にとりついた右手の上にハンマーが落ちた。火のような痛みが全身を貫き、田辺は声にならない叫びをあげて、その場にうずくまった。

 踏査をはじめたころはみどりにおおわれていた山が見事な紅葉を見せ、いつの間にかすっかり葉を落とした梢に、風花が舞う季節に移っていた。 琵琶湖疏水計画の調査を終えた田辺が東京の自宅に戻ったのは、その年も暮れようとするころだった。そしてそのころから、山で傷つけた右手の中指がはげしく痛みだした。骨膜炎をおこしているようだった。しかし彼には、入院治療する経済的ゆとりも、ひまもなかった。工部大学校では卒業成績優秀者にのみ工学士の資格が与えられ、それに伴って初任給にも差がついた。借金をかかえて学業をつづけ、早く自立して母を養わねばならない彼には、留年も許されなかった。

 田辺は痛む右手を吊り、左手にペンを持ちかえて、卒業論文に取り組んだ。二本の定規を置き、動かないように重しをのせ、いざ線をひこうとすると、烏口が乾いていて、また最初からやりなおし。等高線はいびつになる。そのあいだにも堪え難い痛みが襲った。

「田辺くん、けがが左手だとよかったのにねえ。そしたらそれほど苦労しなくともよかったのに」 友だちに同情されるたびに、田辺は笑顔で返した。

「ご心配いただいてありがとう。でも同じ苦労するなら、百難を排する方がやりがいがあるよ。断じて行なえば鬼神もこれを避くだ」

 不撓不屈の精神力はいやがうえにも養われていく。

 そんなある日、田辺は大鳥校長に呼ばれて、校長室へ出向いた。そこには客がいた。京都府知事北垣国道だった。

 北垣は琵琶湖疏水工事を農商務省技師南一郎平に委ねるつもりだった。その矢先、南は内務省に移動した。内務省技師にたのめば、工事は内務省直轄となる。疏水工事に京都の起死回生をかける北垣は、疏水を京都の、京都による、京都のものとしたい考えを持っていた。したがって内務省技師に委ねるわけにはいかない。そこで南に替わる適当な人物の紹介を大鳥校長に依頼した。

 田辺朔郎を大鳥は推薦した。田辺が作成中の論文「琵琶湖疏水工事の計画」の内容は英国人教師たちも称賛を惜しまず、英国の専門誌に掲載する予定だという。

 田辺と会った北垣は、ひとめで田辺の人間性を見抜いた。学問に対する真摯な態度とそれに伴う学識、柔軟な頭脳、なによりも彼の不撓不屈の精神力、彼が求めていた人材だった。

 田辺の卒業を待って、京都府御用係として琵琶湖疏水工事を託すことを、北垣はこのとき決断した。

「工部大学校ニ於イテ土木学ヲ修メ定規ノ如ク其業ヲ卒エ試験高点ヲ得テ第一等ノ科第ニ登ル乃チ授クルニ工学士ノ位ヲ以テス因テ名ヲ署シ印ヲ

シ以テ永ク其栄誉ヲ証ス」

 明治16年5月15日、山県有朋工部卿代理から卒業証書が授与され、田辺は第一等で卒業すると、直ちに東大病院で指の手術を受けた。右手中指は第一関節と第二関節のあいだを切除され、彼はようやく長いあいだ彼を苦しめた痛みから開放された。

 北垣は地方官生活を通じて任地主義を貫き、住民自治尊重の立場をとる知事だった。それには二手も三手も先を読んで、まず根回しをする彼独特の手の打ち方があった。

 琵琶湖疏水のような大プロジェクトを実施するには、本来ならば世論の盛り上がりを期待したいところである。だが沈滞した市民感情にその可能性はない。そこで北垣は世論をつくるための行動を開始した。勧業諮問会の設立である。京都の各界を代表する有力者を50人ばかり選出して勧業諮問会のメンバーとし、会員の賛同を得たうえで、会の総意として琵琶湖疏水建設をアピールしようというものである。

 工事主任となった田辺は、測量主任島田道生ら技術陣とともに改めて疏水ルートの調査を行い、計画書や見積書を作成した。

 琵琶湖疏水は琵琶湖の南端三保ヶ崎を取水口とし、長等山三井寺下まで一直線に約860メートルの運河を開削、取水口には築地を造成する。滋賀県と京都府の境界を画す長等山には約2500メートルのトンネルを掘削する。この当時としては日本で最長のトンネルとなる。掘削に際しては、まず竪坑を掘る。竪坑を掘る手間はかかるが、結果的に工期は短縮される。竪坑掘削も日本ではまだ未経験の技術である。

 京都府藤尾村に位置するトンネル西口からは、山塊の裾に沿って山科運河を開削し、日ノ岡山をふたたびトンネルで抜けて、蹴上に達する。この地点で本線と支線に分け、本線は鴨川に放流し、支線は南禅寺境内の水路橋を通過して岡崎にいたる。その地域に水車工場を設け、落差によって集中的に動力を起こす。その周辺を工場地帯とし、各種工場を招致する。なお水路は一部分水して、山科地方や愛宕郡の灌漑用水にあてる。

 蹴上と南禅寺両船溜の高低差36メートル、長さ約580メートルの斜面には15分の1の勾配で傾斜鉄道(インクライン)を敷設し、20馬力の水車動力で舟の上下移動を行なう。

 工費は60万円と見積もられた。

 起工趣意書には琵琶湖疏水建設の目的として、 1 製造機械之事

 2 運輸之事

 3 田畑灌漑之事

 4 精米之事

 5 火災防慮之事

 6 井泉之事

 7 衛生ニ関スル事

 の7項目があげられた。要するに疏水建設の二大目的は動力源と運輸路の確保であり、他は水資源に乏しい京都が疏水によって改善されるはずのものである。

 明治16年11月5日から3日間にわたった勧業諮問会で、会員は全員一致で琵琶湖疏水建設に賛成した。疏水工事を成功させ、京都を日本一の生産都市とすることに、京都の有力者たちはこぞって積極的な態度を表明したのである。

 つづいて開かれた上・下京連合区会(現在の京都市議会にあたる)では出席議員52名中、49人が原案を可決した。

 知事に就任以来、3年の歳月を費やして調査企画した琵琶湖疏水プロジェクトは、上・下京連合区会の可決と、世論の盛り上がりという大きなうしろ盾を得た。そこで北垣は「起工特許」を得るべく、工事主任田辺朔郎や測量主任島田道生らを伴って上京した。

 明治17年12月7日、参議井上馨邸でのトップ会談に集まったのは、参議伊藤博文、山県内務、松方大蔵、西郷従道農商務の各大臣であった。 北垣はかってこれら政府首脳と個別に会い、基本的に疏水建設の内諾を得ていた。したがって今回の起工願の提出は形式的な手続きだと考えていた。ところが松方、西郷の薩摩派と、伊藤、山県らの長州派のあいだで意見が対立した。

 薩摩派は琵琶湖疏水を単なる農業用水とする認識にとどまり、簡単な工事を主張する。これに対し長州派は、琵琶湖疏水を京都の計画案通り、運輸、工業を中心とする総合的、多目的利用の運河をつくるべしとする。

 幕末から維新にかけての薩摩と長州の確執は、10数年を経過しても、事あるごとに根強く残り、地方都市の事業計画にも影響を及ぼしているようだと、田辺は彼らの伯仲した議論を聞きながら興味深く思った。しかし京都側としては、薩摩の意見が優位を占めるのを黙って見ているわけにはいかない。この事業の将来性や、技術的見解をはっきり表明しなければならない。政府元老を前にして、弱冠22歳の田辺は説破につとめた。

 この日の会談は薩長の派閥争いにまきこまれたかたちで、結論が出ないままもの別れとなった。 その後内務・農商務両省の話し合いの結果、内務省が主導権を握る形となり、京都府にとっては好都合に展開するかに見えた。

 翌年早々、政府派遣の内務技官田辺儀三郎とオランダ人お雇い技師ヨハネス・デ・レーケが京都で現地調査を行なった。

 デ・レーケは明治6年に来日以来、大阪築港や淀川河川改修工事、木曽三川治水の設計・施工を指導し、オランダ式粗朶沈床工を日本に導入している。

「河川にはそれぞれの歴史と個性があり、人間がそれを扱う場合には、これらの点を重視しなければならない」

 という持論を徹底させ、低水工事とともに砂防工事の重要性を説いて、日本の土木技術の黎明期に、その基礎を築いた功績は大きく評価されていた。したがって日本政府の土木工事に対する彼の発言は絶対の信用を置いていた。

 現地調査の結果、デ・レーケは結論づけた。

「京都府民はこの工事の難易、工費の多少を考えずに、挙って琵琶湖疏水を熱望している。しかしながら京都と琵琶湖間には、現に逢坂山という山があって両者を隔絶しており、それを貫通するには数百メートルのトンネルを掘らねば、琵琶湖から京都に水をひくことは不可能である。ところが同山の地質は大体が堅固な岩石で、掘削は不可能ではないが、それに要する費用は莫大なものである。その他、水路中には水門や堰などの設備も必要で、この費用も少なくはない。この大工事が貨物輸送など公私にわたって少なからぬ利益をもたらすことは明白であるが、結論として、経済上の点でこれが完全無欠の策とはいいがたい」

 大蔵省はデ・レーケの意見を優先させた。莫大な工費を要する疏水工事以外に緊急の事業があるはずだという。

 内務省内部や、かって京都府舎蜜局化学教師をつとめたお雇い外国人教師も、反対意見に同調した。

 反対は府民のあいだにもひろまった。琵琶湖に向かってトンネルを掘れば、湖水がどっと流れ込んで、京都盆地が水没するというデマがとび、疏水建設は北垣知事の功名心のためだという謀略が流れた。

 上流の滋賀県は、疏水で琵琶湖の水が京都へ流出すれば、琵琶湖が干上がると反対を唱え、下流の大阪府は、疏水の淀川流入によって、淀川沿いの町村が洪水の被害を受けると理由をあげて反対した。

『日本立憲政党新聞』は起工趣意書にあげられた項目ごとにいちいちクレ-ムをつけ、この事業を強引に押し進めようとする為政者を糾弾するキャンペ-ンをはじめた。

 内務技官田辺儀三郎は、

「全工事中もっとも難工事を予想される長等山トンネルに関し、京都府の設計では、その地質を花崗岩と認定して、全長2520メ-トル中360メ-トル区間のみ煉瓦巻き立て施工としている。しかし土木局の調査によると、花崗岩と粘板岩が混じっているので、安全措置としてトンネル全延長に煉瓦施工の必要がある。南禅寺トンネルも同様、地質は粘板岩のため、京都府案の全延長963メ-トル中180メ-トルという覆工施工を、トンネル全延長に拡げる必要がある。両トンネルとも、地山の圧力を支えるド-ム部だけでなく、水流に抵抗するために、両岸および川底部も煉瓦巻きとしなければならない」

 と修正案を突き付けた。

「かかる如き懸念ある以上は、決して工事に着手せしむべからず。かならず起こすべきの事業は、必ず遂ぐべきの計画なかるべからず」

 山県有朋は計画修正案が提出された際の閣議で述べた。

 内務省の修正案通りに施工すれば、工費の倍額アップは目に見えており、実施不可能として見送らざるを得ない。内務省のつけたクレ-ムが、実はそれを狙ってのことであることを、北垣は感じ取った。

 修正案をのめば、60万円と予定した工費は倍額を超えて125万円にはねあがる。60万円であれば、産業基立金(天皇東行に際し下賜された10万円で近代化事業を興し、利殖した資金)397、000円と国庫補助金などを充当すれば、市民の直接負担は一切ない。しかし倍額ともなれば、その増額分をどこから徴収するか。市民への多額課税は免れない。その場合の市民の対応、市民感情なども憂慮される。

 田辺は北垣がこうした事態に直面して、いかに苦悩しているかを身近に見ていた。北垣の頭髪に白いものが増えたのを見ても、その苦悩の深さが推し量られる。

 だが同時に、田辺は北垣があらゆる困難な条件に阻まれても、それを克服し、初志貫徹に全力をつくそうとしている使命感に、強い感動と共鳴をおぼえずにはいられなかった。

  北垣は背水の陣を敷く思いで連合区会に臨んだ。

「疏水工事は京都の、京都による、京都のためにおこす事業であります。知事であるわたしの功名心だとか、妄想だとか噂しているものもいるようですが、わたしは自分の名誉など望んではいません。将来に向かって、京都の活性化をはからねばならないときにあたり、京都100年の計として実現を希望しているのです。これが後世に残すべき根幹事業であることを、わたしは確信して疑いません。しかしながら市民が子孫に残す大きな財産を築くわけですから、市民の一人ひとりにも協力していただかねばなりません。要するに倍以上にはねあがった事業費を、市民全員で負担する決意があるかないか、もしなければ、残念ながら疏水はあきらめねばならないでしょう。市民を代表する議員諸君の熟考をおねがいいたします」

 北垣には、20世紀へ向かって京都の活性化をはかろうとする意気込みがあった。

 連合区会は審議を重ねた。その結果、市民の代表たちは日本でも前例のない高額工事費の支出を承認したのである。

「京都の未来を築くために!」

 議員の大多数が、北垣と同じように、いかなる困難障害を克服しても、初志貫徹の意気込みに燃えたのであった。

「書面之趣聞届候事」

 明治18年1月29日、琵琶湖疏水起工特許は遂におりた。

 総工費1、256、735円、国家予算7000万円、内務省土木費総額100万円の時代に、この琵琶湖疏水工事費がいかに大きいものであったかがわかる。

 工事主任田辺朔郎24歳の春である。

 工事に反対したデ・レーケは、意見書のなかに記していた。

「京都府のスタッフが作成した運河路線地図は、各地高低の位置をあらわす方法として等高低地形線(コントルライン=コンタ-)を用いている。これは実地製図技術として高く評価されるべきものである。費用の点で工事は実施不可能の結論にいたったが、作図の優秀さは大いに称賛に価する。作図者は田辺朔郎氏である」

 この当時、日本では設計図に等高線を入れる技術がなく、田辺がはじめて試みたものだった。田辺は彼が作成した設計図を、デ・レ-ケにほめられたことに意を強くしていた。外国人技術者に頼ることなく、日本人だけで琵琶湖疏水工事を完遂させる技術的自信を、彼はこのときすでに、その手中にしていたのである。

「琵琶湖水ヲ疎通シ永ク京都ノ富源トナル可キ大工事ヲ起サンカ為メ官民一致忍耐勉強数年ニシテ終ニ起業ノ困難ニ勝チ工ヲ起コスニ至レリ 必信ス施工ニ至ッテモ百折不倦同心協力速ニ竣功ノ期ニ至ランコトヲ 本日起工ノ式アリ其末席ニ列スルノ栄ヲ忝フス 茲ニ一言ヲ延ベ以テ祝辞トス」 明治18年6月2日、3日の両日、滋賀県大津三井寺下三尾神社と京都八坂神社で行なわれた起工式で、工事主任田辺朔郎は山階宮晃仁親王、北垣知事につづいて祝辞を読みあげた。田辺にとって、それは祝辞というより決意というべきものであった。

 彼は2日の起工式に先立ち、彼自身が手づくりした導火線で火薬を爆発させ、藤尾村試掘現場に一声の霹靂を打ち上げたのだった。雷鳴にも似た響きが腹にしみいるなかで、感動が彼の全身を貫くのが心地よかった。学生であったころ、はじめて東海道線逢坂山トンネルの中に踏み入れ、自然を畏怖しながらも、技術でもって自然に挑む土木技術者の在りようを自覚した日の感動を甦らせたのだった。そして同時に、遂に大工事に立ち向かう日の来たことを、彼自身の手でこの工事を完遂させねばならない責任を、彼は身の引き締まる思いで噛みしめたのであった。

 工期は5年を予定していた。田辺は疏水全線の工事を同時に完成させたいと考えていた。もっとも難工事が予想されるのは、長等山下に掘る2436メ-トルの第一トンネルである。当時としてはだれも経験したことのない(灌漑用水路ではない)長い本格的トンネルである。田辺はトンネル東口から約3分の2地点の小関峠に深さ50メ-トルの竪坑を掘ることにした。竪坑を掘る手間はかかるが、掘削口を多くすることで、結果的に工期の短縮につながるのである。竪坑を掘ること自体、日本でははじめての工法であった。

「シャフト」 竪坑を彼はこう名付けた。直径は5・5メ-トル、土質は砂礫、さらに角硅岩、粘板岩、砂岩。ハンマ-、つるはし、シャベルなどを使っての手掘りである。ズリは地上に設置した神楽算(大きなろくろのような巻き上げ機)で引きあげ、牛車に積んで土捨場に運んだ。

 1時間に20トンもの湧水は、いくら汲み上げても追いつかず、坑底は水没した。英国から輸入した小型揚水ポンプでは間に合わず、あわてて大型ポンプを注文した。想像を絶した湧水に、田辺は早くもくじけそうになり、三池鉱山勝立炭鉱主任團琢麿の支援を求めている。そのころ團ははるかに大きな湧水と闘っていたのだった。

 大型ポンプ設置作業中、田辺は最初の工事犠牲者を出した。ポンプ主任大川米蔵はからだを水に浸したままで小型ポンプを大型ポンプと交換し、作業の首尾を見届けた瞬間、極度の緊張から歓喜へ移行する境目で、神経の平衡を失った。その夜大川は50メ-トルの竪坑に飛込み、自らの命を断ったのである。工事を通して、赤痢の流行などで17名の犠牲者が出たが、痛恨の思いは終生田辺の胸中に宿り、後年彼は自費で鎮魂碑を建て、「一身殉事 万戸潤恩」と刻んでいる。

 196日を費やして竪坑が底位置に達すると、つぎは測量だ。まず地上で中心線を測量する。この線を中心から1・5ミリずつ、計3ミリの間隔をとって、竪坑上に針金を張った。つぎに中間から約4キログラムの重りを坑底におろした。坑底には油を張った樽を置き、その中に分銅を垂らして震動を防いだ。

 測量中の震動をできるかぎり防ぐために、揚水や送風機械の運転をすべて停めたところ、竪坑内に湧水がどんどん溜まり、腰まで浸すようになると、測量は中断せざるを得なくなる。測量を中断し、湧水を汲みあげ、再び測量を開始する。中心線や勾配の綿密な測量はその繰り返しだった。

 竪坑ができあがると、下部を東西に分岐して、竪坑口と大津口、藤尾口の四ヶ所からトンネル掘削に着手した。カンテラ照明の下で、のみとハンマ-をふるう、文字通り人海戦術である。ダイナマイトや雷管はすべて輸入にたよっているから、注文から入手までには約半年の時間がかかる。やがて坑内にはレ-ルが敷かれ、ズリを満載したトロッコが走った。神楽算では能率があがらないので、田辺は自分で設計したエレベ-タ-を設置してズリを搬出した。掘進距離は1日約1メ-トルであった。

 これまでの日本のトンネル工事で、これだけの成績をあげたものは、おそらくなかったであろう。しかしこの掘削距離は、これまで掘った箇所の土質がよく、掘りやすかったことにもよる。だがこれから先は土質の硬変が予想される。諸物価高騰の兆しが見えてきたおりから、このまま直轄工事をつづけた場合、完成の時期も費用も予測が立たない。

 工事を確実に、しかもやすく完成に漕ぎつけるには・・・、田辺はここで、トンネル掘削を請負に発注する方法に切り替えた。京都府の工事関係者を説得し、請負業者との交渉にもあたった。公共事業はすべて直轄で行なわれていたこの時期としては、これは特筆すべきことである。琵琶湖疏水工事を成功させたカギともいえるであろうし、それ以上に田辺の先見性が高く評価されるべきであろう。

 トンネル巻き立てには煉瓦を用いた。琵琶湖疏水にはおよそ2000万個の煉瓦を要するため、(泉州堺にある煉瓦工場の年間生産量は150万個)煉瓦工場を設けて、煉瓦を自給した。木材、石材も同様、自給自足である。セメントは2万5000樽を必要とする。この当時、日本のセメント工場は国営深川分局(のち民間に払い下げられ、現在の浅野セメント)と、民営小野田セメントの二社しかなく、小野田の年間生産高は4800樽(1樽400ポンド入り、5~6円)だった。国産だけでは間に合わず、英国から輸入したが、価格は倍額となった。したがってセメントはくすりのように貴重品であった。

 琵琶湖疏水工事は日本人のだれもが経験したことのない大土木工事だった。しかも設計の段階から当時としては非常に高い技術を要求していた。したがって設計や見積りはすべて唯一の工学士である田辺ひとりの仕事であった。工事主任として現場の指揮をとる一方で、技師たちを集めて技術講習会を開くのも、大工や車夫あがりの素人作業員を指導するのも、彼の業務だった。

 そうした多忙の合間を縫って、彼はこの時期、「公式工師必携」(技術者用ハンドブック)を執筆し、「琵琶湖疏水工事報告」と題する論文を「工学会誌」に発表している。幕臣の子として肩身狭く生き、その間に培った不撓不屈の精神力が、この一大土工に場所を得て、一気に燃焼したといえるほど、八面六臂の仕事ぶりである。

 着工から2年余、長等山トンネル西口(藤尾口)~竪坑間(758メ-トル)では、切羽の間隔がせばまり、反対側で仕掛ける発破の音が聞こえるまでになって、貫通間近を思わせた。田辺は作業員に指示した。

「発破をかけるときは、互いに合図をしろよ。ダイナマイトを仕掛ける方が、まず槌で岩を連打するんだ。聞こえたら、相手も連打で応えろ。それから仕掛けようとする爆薬の数だけ、岩を打ち鳴らせ。相手方も同じ数だけ打ちかえすんだ。この合図をしてから爆破にかかれ」

 明治20年7月9日午後7時、トンネルの奥で最後の爆発音がひびいた。掘削開始から2年3ヵ月目であった。実測の結果、左右方向の誤差13・5ミリ、高さ方向誤差6ミリ。島田測量主任をはじめとするスタッフの高度な技術を証明する数字である。

 700メ-トルも離れたところから別々に掘った穴が、ある日、山の中でスパッと出会ったのである。

「そんなことができるものか。大金のむだづかいだ」

 といっていた市民は、その日から疏水は必ずできると信じるようになった。

 しかしその一方で、特別課税を押しつけられた市民の不満の声も大きくなっていた。

「今度来た餓鬼 極道」

 北垣国道をパロディ風に非難したビラが各所に貼られた。学生あがりの若僧を重用する北垣を誹謗する声もあがった。

「姑が嫁を誹るような卑屈な真似をせず、男らしく知事と論議せよ」

 北垣は新聞を通じて呼びかけ、堂々と受けて立った。現実の生活意識しか持たず、疏水建設の真の意味を理解していない市民を官邸に集めて、知事は疏水建設の意義を諄々と説いた。

 明治21年には第二、第三トンネルや、大津運河に架かる三保ヶ崎橋、北国橋も完成した。南禅寺境内には全長92メ-トル、地上からの高さ約10メ-トル、両袖の橋基のあいだに13本の橋脚のある花崗岩と煉瓦づくりのア-チ型水路閣(水路橋)が建設中、琵琶湖の水が京都に到達する地点、蹴上と、南禅寺舟溜り間582メ-トルの斜面には、15分の1勾配のインクライン(傾斜鉄道)が設けられている。荷物や人間を乗せたままで舟を台車に載せて、斜面を上下する構造物のことを、田辺は工事中から「インクライン」と英語で呼んだ。そのことばの意味を市民がわからなくともいい。疏水工事が京都を近代化するするためのものであり、インクラインはそのシンボルとして市民が理解してくれることを彼は意図したのである。

 アメリカのマサチュ-セッツ州にあるホリヨ-クという町では、水力配置方法(川にダムをつくり、一気に水を落として多数の水車をまわし、集中的に水力をつくる)により工場を誘致して、一大工業都市づくりに成功したという情報がもたらされたのは明治22年7月、工事が8分どおり進捗したころだった。京都が志向しているのと同じ形式である。参考のため現地視察する必要があると判断した上・下京連合区会は、京都商工会議所会頭高木文平と田辺工事主任をアメリカへ派遣した。

 ホリヨ-ク形式はスケ-ルの点で参考とはならなかったが、コロラド州アスペンの銀山でデブロ-という男が2ヵ月前に水力発電を開発したばかりとの情報をキャッチした。世界ではじめての試みである水力発電を、アメリカではまだ「新しいもの好きの発明気ちがい」としか考えていなかった。

 田辺はその情報をすでに雑誌から得ていた。そのときから若者の柔軟性に富む頭の中では、これからの動力源は旧態依然とした水車ではなく、電力であり、新時代を象徴する「電力」を「自分がつくっている琵琶湖疏水」に採りいれたいという考えが芽生えていた。ホリヨ-クの水力配置方法が京都の参考にならないことは、彼にとってはむしろ歓迎すべきことだったのだ。

 田辺は勇躍アスペンへ向かった。

「水力電気利用を考えついてから1年余り、失敗に失敗を重ね、2ヵ月前にやっと水力を電灯や動力に利用することに成功したのです。あなた方のように水力発電に熱心な方になら、よろこんでなにもかも残らず教えてあげましょう」

 現在はわずか150馬力の出力だが、800馬力の発電装置を工事中だといいながら、デブロ-はペルトン水車による発電方法を懇切丁寧に田辺に伝授した。

「水力配置方法が予定されている南禅寺から若王子にかけての東山山麓一帯は、多くの文化財と歴史的景観が残されている地域だ。ここに水車工場をつくり、零細な工場を誘致すれば、京都は後世に残すべき大切なものを永久に失ってしまうことになる。だが水力発電ならば、一ヶ所に発電施設を設け、あとは電線でどこへでも電力を供給できるわけだ。動力源と史蹟保存の一挙両得である。工費の点でも、水力配置方法で新たに土地を買収することを考えれば、水力発電は半額ですむ。ただ、デブロ-が開発した調整機では、電力を事業としていくうえで不備な点がある。これさえ改良すれば、京都は日本で、いや、世界で最初の水力電気事業を始めることができるのだ!」

 土木技術者田辺朔郎としては、武者ぶるいするほどの精神の高揚である。彼はアメリカ滞在中に調整機の設計図をかいた。それを製造業者に示し、製品を注文した。

 高木と田辺の帰朝報告をもとに、琵琶湖疏水工事は計画を途中変更し、水力発電を採用することとなった。

 田辺たちが帰国して2ヵ月後の明治22年2月27日、長等山トンネル東口が貫通した。高低差1・2ミリ、中心差7ミリ。着工以来3年6ヵ月と19日、2436メ-トル、日本でいちばん長いトンネルが貫通した。

 明治23年4月9日、琵琶湖疏水通水式、田辺は天皇・皇后両陛下に閘門を開閉してお目にかけ、水力発電方法を説明した。

 はじめて京都入りして琵琶湖疏水ル-トを実地踏査した日から8年余、琵琶湖疏水は田辺朔郎の青春そのものといえよう。

 田辺が北垣知事と出会ったとき、彼はまだ二十歳にもならない学生だった。だが北垣はこの若者を信頼し、京都だけでなく、日本でも前代未聞というほどの大事業を彼に託した。それに対し、若者は真摯に努力し、勉強して、その信に応えたのである。このことが琵琶湖疏水建設という大事業を成功に導いたといっても過言ではないだろう。しかも最初の計画にはなかった水力発電を導入し、それによって日本で最初の路面電車を走らせるという快挙につなげた。その結果、遷都で疲弊しきっていた京都市民は、誇り高いみやこびと意識をとりもどし、京都は近代都市として新生をはたしたのである。

 そして琵琶湖疏水の完成は、土木技術における日本の独立宣言ともなったのである。

 琵琶湖疏水建設の業績により工学博士の学位を授与された田辺朔郎は、母校工部大学校の後身・帝国大学(現・東京大学)工科大学教授となり、北垣知事の長女静と結婚、明治27年には英国土木学会から日本人としてはただ一人テルフォ-ドメダルを贈られている。

 一方北垣は明治25年北海道長官に転出した。任地主義を貫く北垣が北海道の拓殖を進めるうえで最重要視したのが、鉄道の建設と港湾の整備であった。1000マイル幹線鉄道計画の推進をはかった北垣は、明治29年に北海道鉄道布設法が公布されると、田辺朔郎にその実務につくことを要請した。

 6年間の帝大教授の職をうち捨て、田辺は北海道鉄道技師として現地に赴いた。この当時の北海道は人口およそ80万人、鉄道は明治13年に小樽から空知太(いまの滝川)まで炭鉱鉄道が通じていたが、ほとんどの地を原生林と湿地帯におおわれていた。原生林のなかにはひぐまやおおかみなどの猛獣が跋扈し、無数の蚊虻が飛びかっていた。北海道に新天地を求めたひとたちが、志を遂げずに内地へ逃げ戻ったのは、寒さのせいではなく、虫の恐怖からだといわれるほどだった。

 北海道鉄道敷設部技師となった田辺は精力的に調査を開始した。といっても道路は原生林を切り開いて急造した囚人道路があるくらいのもので、1000マイルの実地踏査には歩くか馬に乗る以外に交通手段はまったくない。道央の鉄道拠点とした旭川から、草葉のトンネルと化した囚人道路を馬の背に揺られて大雪の峠を越え、遠軽へ。北見途上で田辺は詠んでいる。

《はてもなき白樺のもりひるくらし しげるくまささみちをおおいて》。

 遠軽からはコ-スを北にとって、オホ-ツク沿岸を湧別・サロマ湖、能取湖、そして網走へ。網走からは斜里、硫黄山、釧路湿原を経て釧路へ。 厚岸、根室を視察したうえで釧路を道東の鉄道拠点と定め、太平洋岸を庶路、白糠、音別、尺別とコ-スをとり帯広へ。

 帯広からは十勝川右岸を南下、広尾、庶野、そして断崖絶壁の幌泉(いまのえりも)を経て、様似、浦河、鵡川、勇払、そして札幌。

 さらに旭川から北へ名寄、稚内。さらには札幌から小樽、倶知安、長万部、内浦湾沿いに八雲、森、大沼を経て函館へ。途中で見た風景は

《天かける姿に似たり駒か岳 雲のたてがみ風にみだれて》

 だった。こうして彼は1000マイル幹線鉄道ル-トをすべて歩いて、ときには馬の背に揺られて踏査したのである。

 小樽から積丹半島の北側海岸沿いに塩屋、桃内、蘭島を踏査したときには、1メ-トル先も見えない地吹雪に見舞われ、あわや遭難するところだった。

 北海道の脊梁、日高山脈越えの実地踏査に赴いたのは、積もった雪の表面が少し溶けた固雪の季節だった。南北に日高山脈が走り、北海道は二島からなるといわれていたほどで、かって日高の山中に踏み入れたものは、「北海道開拓の父」といわれる松浦武四郎と、あとは鹿の群れと、それを追って狩猟生活を営むアイヌだけであった。

 旭川を振り出しに、原生林におおわれた富良野盆地を縦断し、幾寅、落合のあたりから踏み込んだ山のなかは、気温マイナス20度。二人の技師と数人の人夫を伴った田辺は、この寒冷の地に、しかもいつ何時ひぐまに襲われかねない危険な地に野営を重ねて、日高越えのル-トを求めた。

 渓谷に沿って山を登った。目前に、そこだけ低くなった山の鞍部がある。日高の山々から吹きつける強風で、まばらにのびた潅木が雪上に枯れ枝を差したように見える。どんなに着込んでも、何枚もくつしたを重ねても、冷気は容赦なく骨身にしみたことであろう。

 ようやくのことで峠の頂に立った田辺はその大観に思わず息をのんだ。眼下には雲か海かと見紛うばかりに果てしなくひろがる平原があった。はるか下方、密林のところどころに、十勝川の源流がきらりと光る。3日をかけて分け入った日高の山塊は足もとから切り取ったように失せ、そこには平坦な十勝平野が遠く帯広のあたりまでも一望のもとにひろがっていた。

 石狩と十勝を結ぶ唯一の地点として、田辺はこの名もなかった峠に「狩勝峠」と命名した。そして、

《見おろせば十勝くにはらはてもなし 野火かあらぬか煙たてるは》

 と詠んだ。彼は若いころ中島歌子(樋口一葉の師)に師事していたが、こういう場面で和歌が詠めるのも、彼の素養のなすところである。

 明治30年4月、田辺は北海道鉄道敷設部長に任命されると、部下を前にして抱負を述べた。

「北海道の開拓は、ただ北海道のためでなく、国家のために開拓するのであり、なおかつ国家のもっとも急務とするところであります。北海道開拓の基礎というべき仕事は、交通運転の途を発達させることです。そのなかでももっとも重要なものが鉄道事業です。ですから国は数千万円の公債を募集して、これを北海道に入れることにしました。諸君、銘記しておいてください。北海道鉄道に従事するものは、出身地や学歴、適応性などは問題ではありません。いったん鉄道員となり、この仕事に従事することになったうえは、強固な一致協力が必要なのです。北海道鉄道建設というひとつの仕事に向かって、全員が固く強く協力していかねばなりません。共同の進歩は強固な一致協力があって、はじめて達成されるのだということを、強く心に留めておいていただきたいのです。

 なにが共同の進歩だといえば、鉄道部の事業はいまはわずか35マイルの工事建設中ではありますが、10年のちには1000マイルの鉄道を管理し、1ヵ年に何百万円もの経費を収支し、幾千人もの職員をかかえる大事業に発展するのです。したがって諸君の業務は鉄道線路の延長とともに伸び、諸君もともに前途有望な地位に向かって前進するのであります。

 しかしながら、諸君は同時に少なからざる困難に遭遇する覚悟も持っていただきたいのです。国家のため、そしてまた北海道開拓の基礎ともなるべき鉄道事業は、困難なしにできるような小さな事業ではないのです。国家の大事業なのです。これを完遂するには、多大の困難に出会うのは必定です。しかしわれわれはその困難を打破する力を持っています。その力とは、前に述べました一致協力です。そして忍耐、勉励、公平無私の精神です。この精神さえあれば、いかなる困難にも打ち勝つことができると、わたしは信じています。諸君が国家のためにご尽力くださることを希望いたします」

 田辺は北海道に1000マイルの鉄道建設を完遂することを、彼に与えられた任務として、そのことに強い使命感を抱いていたのである。そして同時に、実務家である彼は、その仕事にこよなく愛着を持っていたのである。だからこそ、地吹雪で遭難しそうな目にあっても、マイナス20度の山中に野営を重ね、いのちを張って鉄道ル-トを実地踏査するときも、彼の心を支配するものは充実感であったのだ。

 しかし新任の北海道長官のなかには、彼ら鉄道建設に携わるものが、実際に命がけで仕事をしていることに理解を示さないものもいた。とくに維新を生き抜いてきたものは、自分こそ命がけで仕事をしたという意識が強いようであった。安場保和もそういった長官の一人だった。

「雨が多かったことを、仕事が遅れた口実にするなどもってのほかだ。そもそも北海道開拓にもっとも必要かつ急要なものは鉄道だということを、諸君はわきまえておらん。だいたい、命がけで仕事をしたことのないものには責任感がなくていけない」

 という調子で、二言めには命がけで仕事をしたことのないものは・・・といっては相手をへこませて、悦にいっている。

 このような長官を、田辺は工事現場に案内し、機関車の試運転に試乗させた。工事中であるから客車はなく、貨車が連結されたものである。

 この当時、本州では列車の連結は手動式で行なわれていたが、田辺は冬期の作業を考慮して、北海道鉄道にはアメリカからオ-トマティック・カプラ-を取り寄せて自動式にしていた。

 列車が動きだすと、自動連結器がはげしく音をたてて振動し、長官が体をよろめかせた。

「長官、お気をつけください。この列車は建設列車です。営業用の列車の場合は、まず乗客の安全をはかって保安組織が整っていますが、建設列車にはそれがありません。安全の保障はないのです。器材を運ぶのが目的ですから、保線工事もしてありません。脱線すれば、列車は転覆します。山を切り取ったところでは、いつ岩が落ちてくるかもわかりません。しかし、わたくしども鉄道工事に携わるものは、つねにそういった危険に身をさらして仕事をしているのです。ほんとうに命がけの仕事です」

 列車は木造桟橋を架けただけの橋を渡った。長官は不安げに顔をひきつらせた。

「いずれは鉄橋をかけます。しかし北海道の鉄道は植民鉄道です。安く、早く、1フィ-トでも長く延ばすことが第一なのです。ですから急速施工のところは、すべて土仕事と木だけです。文字通り土木工事です」

 長官の顔が次第にこわばるのをこっそりと見やりながら田辺はいった。

 線路は神居古潭トンネル掘削現場の手前で切れていた。一行は貨車を降り、歩いてトンネルの中に入った。

「この岩が北海道特有の蛇紋岩でありまして、空気に触れると急速に膨張して、トンネル崩壊をおこします。崩壊箇所を掘りなおしても、また崩壊をくりかえします。同じ箇所を何度も掘削しなおさねばならなかったので、冬期も作業をつづけ、それでもまだ貫通にいたりません。こうしているうちにも、いつなんどき崩壊するかわかりませんので、坑夫や人夫はつねに命がけで働いているのです」

 建設工事に携わるものが、つねに危険と隣り合わせ、命がけで働いていることを、実情に通じず、理屈ばかり講じる為政者に知らしめたいとの意図だった。

「よくわかった。みんなご苦労だな。きょうは長官から酒代をとらせるから、気をつけて働いてくれ」

 そそくさと逃げるようにトンネルをあとにする長官の背に向けて、田辺が会心の笑みをこぼしたことはいうまでもない。

 北海道鉄道建設は12年継続、最初の5年は1ヵ年の工費100万円、敷設距離30マイル、あとの7ヵ年は1年の工費200万円、距離60マイル、1マイル建設費33000円と決定していた。

 明治31年3月になって大蔵大臣井上馨は、

「政府事業大収縮のため、一切の事業中止」

 を通告した。日清戦争のあと、日本は軍備拡大に多額の費用を使い、一方では雨後の筍のように萌芽した企業熱で、著しい財政難に陥っていた。このまま放置すれば国家経済の危機を招くため、全国的に事業中止を断行しようとしたのである。鉄道事業も例外ではなく、本州、北海道を問わず一切中止、北海道鉄道明治31年度100万円の予算も打切りの通告が届いた。

 田辺にはその通達に承服できなかった。北海道鉄道事業がようやく軌道に乗ってきた矢先ということもあったが、北海道の場合は本州とは異なり、いったん打ち切れば、たちまちのうちにもとの蛮地に戻ってしまうのが目に見えている。これまでにかけた莫大な投資も苦労もすべてが水の泡となるのだ。北海道の将来を考えれば、大臣通告とはいえ、黙って聞き入れることはできない。

 田辺は直ちに上京し、芳川内務大臣とともに井上大蔵大臣に面会を求めた。

 井上は数字に強いという定評があった。数字をあげて論争相手をへこますのを得意としている。井上にはまた「雷大臣」の異名があった。元老の地位にものをいわせ、持ち前の癇癪で雷を落とされると、だれひとりとして逆らえるものはいないという。

「井上さんの庇護を受けて立身出世をはかる気も、書画骨董を供覧して便宜をはかってもらおうという下心もない。いまここで鉄道事業を打ち切られたら、ようやく軌道に乗りかけた拓殖事業はすべて元の木阿弥。これは北海道だけでなく、日本の損失なのだ」

 との信念があるだけで、田辺には一切の私利私欲がない。あるのは北海道鉄道の存亡が、いまや北海道鉄道部長である彼の肩にかかっているのだという責任感もしくは使命感であった。

「田辺博士がなにをいおうと、おれの立てた方針は変わらんぞ。いまや国がつぶれようとしているのだ。こんなときに北海道の鉄道なんかにまで手がまわらんぞ。あんなものはやめてしまえ」

 頭ごなしに井上はいい放った。

「お家がつぶれる、本店がつぶれるというときには、別荘やおめかけさんなんかはおやめになったがよろしいでしょうが、本店の仕込みができて、これからだんだんお客がつこうというときに、支店をやめるというのはまちがいじゃございませんか。いまや北海道が日本の国家にとって、いかに重要な位置を占めるかについては、ご異存があろうとは思いません。閣下も過年ご視察なさって、お認めになっている通りでございます。北海道の面積は5101平方里でありまして、東北7県を合わせた5071平方里とほぼ同じ大きさでございます。東北7県はおよそ600万人の人口を有し、毎年およそ100分の7ずつ増加しております。一方北海道の人口は、目下のところ約80万で、100分の8ずつの増加であります。この状態で北海道の開拓を進めてまいりますれば、東北7県と同等のものになるには、今後およそ30年を要し、それをもって北海道開拓はひと通り落成を告げるはずでございます。その落成を告げるときは、本州と言語、宗教すべて変わりない人口4~500万を有する強大な一地域を形成することになります。しかしながら、人間がただ住みつくだけでは、開拓は成れりとは申せません。そこに農業や産業がひらけ、文化が育ってはじめて、豊かな人間社会が形成されるのです。農業や産業を発展させるにはなにが必要か、それは交通機関です。さしあたっては鉄道です」

 それから田辺は現在鉄道が敷かれている区間の輸送量や収入の数字を矢継ぎ早にあげて、北海道のような開拓途上の地こそ、いかに鉄道の効果が大きいかを延べたてた。

 井上は難問百出で攻めてきた。数字に関しては井上に負けない意気込みで、田辺は切り返した。井上さんは話せばわかるひとだと、田辺は確信していたのである。議論は3時間に及んだ。

「臥薪嘗胆、挙国一致して国家の反映につながる事業を完遂させねばなりません。いまや北海道鉄道こそ、この意義に添うものと信じております」 岩をも貫く信念で、田辺はいいきった。

「えいくそッ、100万円くれてやらあ」

 井上の一喝で3時間に及ぶはげしい論戦に終止符が打たれた。

 田辺は精も根も尽き果てるほどの疲労感と、小躍りしたいほどの勝利感に浸った。「えいくそ」のひとことで、北海道鉄道中止の厄をまぬがれたのである。

 明治31年8月21日、第一期工事の上川線滝川~旭川間が開通した。

「鉄道が来たぞう」

 ドラム缶をたたいてよろこぶ旭川住民の顔が、命を賭して鉄道建設に従事した土木技術者への、なによりのはなむけであった。

 だが、この年は例年になく雨が多かった。上川線開通からわずか3週間ばかり、集中豪雨で水位をあげた石狩川や忠別川、牛朱別川が氾濫した。一瀉千里に走る水は鉄橋を破壊し、線路を流し、鉄道は寸断された。

 復旧に2ヵ月余を要した。たまたま実習に来ていた2人の東大生のうちの1人が、この復旧作業の犠牲者となった。痛恨の思いで、田辺は旭川本願寺境内に鎮魂の碑を建てている。

 日本にはじめての政党内閣(板隈内閣)が誕生したのは、同じ年、明治31年の6月である。政党人が北海道長官に就き、勢力をのばすにしたがって、鉄道事業にも田辺個人の周辺にも影響が現われるようになった。いわゆる公人としての意識に欠け、事業を私しようとする為政者や、彼を支持する一部有力政治家の行動は、人格を尊重し、義務を重んじることで、自らをきびしく律してきた田辺にとって、許容の範囲を越えるものであった。

 公私を混同した上司に田辺ははげしく反発し、その結果は、為政者の意に沿わぬものとして逆に反感を買うことになった。元来実務家であり、現場の仕事に愛着を持っていた田辺であったが、周辺の事情が彼の仕事を次第にやりずらいものに変えていた。

《心たに まことの道にまなひなば いのらばかならず 神やまもらん》

 このころの田辺の心境である。

 彼は去就を考えた。北海道にとどまり、為政者に反抗しても鉄道建設に携わりつづけるか、それとも腐敗した北海道鉄道事業に見切りをつけ、人格を備えた優秀な後進の指導にあたるべきか。

「いまや悪人が勢力を得て、善人は無実の罪を着せられる時勢だ。善は天下に敵なしと思うは誤りだ。世界は火事場泥棒と同じで、消火にあたろうとする火消しは火事場泥棒の邪魔とばかり、殴り倒される世の中となってしまった。もはや火消しに執着するよりは、耐火の家を建て、人格の備った後進を育てることが、自分に課せられた仕事のようだ」

 と結論を出した田辺は、中沢学長ら有識者に請われるまま、京都帝国大学教授に就任することを決心した。

 桂太郎陸軍大臣の助力もあり、参謀本部の依頼を受けた形で、約4ヵ月間のシベリア鉄道調査に赴いたのち、田辺は京都に転じた。

 田辺はこの旅行中グラスゴ-に工部大学校の恩師ヘンリ-・ダイヤ-を訪い、久闊を叙しているが、このとき、ダイヤ-は田辺に「明治工業史」の編纂をすすめている。結果的に編纂委員長としての仕事は田辺の後半生を賭けるライフワ-クとなるが、昭和6年に完成した「明治工業史」の題字は、前将軍徳川慶喜が揮毫したものである。

 京都に住まいを移した田辺は、京都大学教授として後進の指導にあたる一方、第二疏水として新たにもう一本の水路の建設を京都市に提案した。明治23年に竣工した第一疏水が水運と動力を目的としたのに対し、第二疏水は京都市の上水道に供するもので、全線水路トンネルを計画した。

 第二疏水建設と同時に、京都市は道路拡張整備と電気軌道敷設事業に着手した。烏丸通り、四条通り、東山通りなどを拡幅し、市街電車軌道を敷設したもので、今日のことばでいえば都市計画である。京都では「京都三大事業」と称した。京都三大事業が完成したのは明治45年6月である。 京都は田辺にとって、土木技術者としての人生のスタ-ト地点であり、青春を燃焼させた地でもあり、いわば第二のふるさとであった。京都発展のために尽力する彼に、京都市長に推挙する話が市会議長からもちこまれたこともあったが、彼は固辞した。為政者となるより、土木技術者でありつづけることを、彼は望んだのである。

 京都三大事業に参画するかたわら、 皇居豊明殿の鉄製煙突設計、本願寺スプリンクラ-設置、御所御用水設計、広島水力電気会社創立、京都~丹後鉄道線調査、房総電気鉄道線調査、京都電気鉄道調査、小田原電鉄計画、木曽川水力電気調査・・・、ほとんど席の暖まる間もないほどの充実した仕事ぶりである。

 明治35年10月に訪京したロシアの参謀部員アダバスチは、琵琶湖疏水工事の技術の優秀さに驚いた。そして、

「現今、わが国人のなかでは、日本甚だくみし易しと論ずるものが多いが、自分は日本を深く視察して、それは大きな誤りであると考えている。まずこの疏水工事にしても、1890年にこれだけの大事業を日本人の手で完成し、さらに水力電気事業のごとき世界の魁事業を計画し、経営している。欧米の輸入品を除くと日本はゼロと思うのは大きな間違いである。日本人には相当創業の力がある。この疏水事業などは、これを視察する外国人に、だれがこの仕事をやったということを広く知らせたいものである」

 と述べた。

 これを受けて、田辺は疏水の長等山トンネル東口と大日山第三トンネル西口のトンネルクラウンに、英文を刻んだ。

「SAKURO TANABE DR.ENG.ENGINIEER-CHIEF WORK

COMMENCED AUGUST 1885

COMPLETED APRIL1890」

 この2年後に勃発した日露戦争の日本の勝利を先取りした感がある。

 明治40年11月鉄道院が設置され、後藤新平が初代総裁に就任した。後藤は台湾民生長官時代から、本州と九州を陸つづきに一本化したい構想を抱いていた。

 田辺が本州・九州連絡海底隧道線調査を委嘱されたのは、明治44年のことである。その年10月30日、彼は現地入りして、最初の調査を実施した。河底トンネルはすでに欧米では何ヵ所かに存在していたが、海底トンネルはまだ世界でも未経験のものであった。しかし最初の調査を行なった段階で、田辺は実現可能と判断した。

 山陽線下関停車場の手前約600メ-トルの地点で分岐し、小瀬戸を橋梁で横断、彦島を縦断したのち、同島南端の田ノ首から大瀬戸のもっとも水深の浅いところをくぐり、九州の大里新町まで水底1マイル、両取付け各1・5マイル、合計およそ4マイル区間をトンネルとし、山陽線の分岐点から九州線の連絡地点まで延長約7マイルを、田辺は関門連絡鉄道ル-トとして選定、工費を1300万円と見積もった。

 同じ時期、東京帝国大学教授広井勇が橋梁による連絡線の調査を行なっていた。海峡の幅が最も狭まっている早鞆の瀬戸に、総延長2980フィ-ト、海面からの高さ200フィ-トの橋梁を、広井は設計した。総工費の見積りは約2142万円であった。

 田辺朔郎と広井勇、一方はトンネルの権威、他方は橋梁の第一人者である。北海道鉄道建設では二人はともに協力しあった仲である。

 本州・九州連絡線をトンネルとするか、橋梁とするかで議論が闘わされた結果、最終的にトンネル案が採用された。

 田辺は基本的に、関門連絡鉄道は橋梁よりトンネルの方が有利だと考えていた。この当時、欧米では中央径間が長く、桁下高を競うかのような架橋が進められていた。しかしこのころ建造中のマストの高い戦艦が通過可能な橋梁を架けた場合、その分列車は高いところを上下しなければならず、運転上永久的に大きな損失を蒙ることになる。機関車や列車の重量が激増していること、さらには空爆の危険という軍事的要素も考慮の必要があったのである。

 トンネル案決定のあと、田辺は欧米各地の河底トンネルを視察し、関門海峡トンネル掘削に際しては、その地質を考慮して、圧縮空気式シ-ルド工法が最適との結論を出した。

 第一次世界大戦後の物価や賃金の暴騰、関東大震災などの影響を受け、鉄道省が関門海峡鉄道連絡線トンネル工事に着手したのは、それから24年後の昭和11年である。田辺はかって欧米の水底トンネルを視察した際、日本でそれが実施されるのはクォ-タ-・センチュリ-先のことかといわれて不愉快な思いをしたものだが、実際その通りになったのである。

 関門トンネル着工の年に喜寿を迎えた田辺は、《なしとげぬことのあまたにのこれるは ことしも去年に似たるくれかな》

 と詠み、関門鉄道トンネルが確実に実現することによろこびをあらわすとともに、国道用海底トンネルの実現をもねがっている。

 昭和16年7月10日、関門海底トンネル下り線が貫通した。田辺がル-ト選定と実地踏査を行い、海底トンネル掘削可能と断定した日から33年が経過していた。

 この日、貫通式に招かれた田辺は、抜けたばかりの狭い坑道をトロリ-で通り抜けながら、よろこびを和歌に託した。

《いつつとせ岩をうがちて海底に ほらみち通すけふぞうれしき》

《けふこそは水底くぐる洞を経て 筑紫のくにへあゆみわたらん》

 彼はすでに81年の齢を重ねていた。

 田辺朔郎は行動派の実務家だった。80歳になってなお、本を読みたい、考えをまとめたい、歩く用事があれば何時間でも歩き、机に向かう用があると、1日も2日も庭にさえ出ずに机にかじりついているという生活だった。「文殊菩薩の再来」ということばがあるように、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏の十界中、仏までいけば再来できないから、菩薩となって再来したい。再来して仕事をしたい、とねがっていた。そして再来した自分に仕事があるようでは、自分のためにはうれしいことだが、人類の進歩のうえから見れば、甚だありがたくないことだと語っていた。

 関門トンネル上り線は昭和18年12月31日に貫通し、上下線全通に伴う開通式は昭和19年9月9日に挙行された。

 田辺がこの式に参列し、よろこびをうたに託すことはもはやなかった。

「エンジニアは社会発展の原動力」の精神を、終生常夜灯のように心の中にともしつづけた土木技術者・田辺朔郎が83年の生涯を閉じたのは、この日に先立つ9月5日である。

雑誌河川 掲載

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